ちょっとブレイク入れましょうか。iketchがよくいう「気づき」。これって本当になんの前触れもありません。目から鱗なんて済ましたセリフが出てくるのも記事を書き始めてからで、「気づき」がきた瞬間は完全に思考停止状態なんです。今回「越生梅林」に行ってきました。「休園」の看板があった時は本当に体の力が抜けましたし、頭の中真っ白でした。見知らぬ先輩カメラマンの導き、ふと気づいた時梅園の真ん中にいて、押し寄せる梅の香りと圧力にたじろいだとき「気づき」はきました。「綺麗」じゃなくて、「梅、怖い」だったんです。これだけの梅に囲まれる経験は人生初。幼少時から花も好きだし、梅だってみてきました。でも、視界におさまらない量の梅は初めてでした。たじろいだんですね、実際。

見渡す限りの梅園。美しさより、iketchがたじろぐ様なインパクトがありました。

「休園」の2文字をみた時の悲しさと切なさは、数分後喜びと興奮に変わったとはいえ忘れられない経験となりました。

ブログの記事を書き始めた時、「梅が綺麗」と文字にした時、「本当にそう思ったかい?」と自分が問いかけてきました。危なく思い出補正でうまくまとめようとしていた自分に気づいたんです。

「怖かったんじゃないのか?」

キーを打つ手が止まりました。そう、僕は嘘をつくところでした。「綺麗」なのは事実。「怖かった」が真実。ピーンときました。「梅とわさびで春を待つ」という企画で自分が考えていたのはいかにこれら古来の食材に興味を持ってもらうか、でした。とはいえ、これらの食材を知り、活用している人に僕の記事は大きな意味を持たないし、僕の記事で献立を考えているお母さんには敷居が高すぎるんじゃないかと思ったんです。誰のために書いている記事なのか? ただの自己満足になっていないか? 自問自答しました。梅やわさびを普段の食生活に持ちこまないってことは、それなりの距離感を持ってしまっているということです。

本来、梅もわさびもクセのある食材です。梅干し1個でご飯茶碗いっぱい食べられたり、わさびの風味で、魚肉の匂いを抑え量が食べられたり... でも、それって梅やわさびの食べ方を克服した人だからなんじゃないでしょうか? そんな僕がいくら魅力を熱く語っても多くの「苦手意識を持つ人」には届きません。僕はどうやって「梅やわさび」を知ったんだろう。そして、どう向き合い、好きになったんだろうと考えました。すると、教えてくれた人がいることに気づきました。それが、祖母だったか別の人だったかは定かではないんですが、「梅を少しづつついばみながらご飯を食べたり、寿司のネタをどけて箸でわさびを取り除き食べたり」したことは僕が考えついた対処方法ではなかったと思います。梅を一気に食べ過ぎてご飯をかき込んだり、拭いきれなくてわさびの辛さで涙したりもしましたが、梅やわさびの特性を知っていたからこそできた対処であり、そうでなかった人はおそらく残念な失敗経験を積み、嫌いになってしまったんじゃないかという仮説に辿り着きました。

「梅やわさびのアタック感を和らげないことには、料理に使ってみようと思わないんじゃないのか?」

僕が「わさび丼」の時に「チューブのわさびを使うな」と言ったのはわさびの怖さを知っているからです。「鼻に西洋わさびの強烈な刺激がくるから」使うなと言ったわけです。花好きの僕が「越生梅林」でゾクっとした(恐怖感)のは視界におさまらないほどの、つまり経験がない梅の量が押し寄せてきたからに他なりません。多くの人は「すごく酸っぱい、すごく辛い」、これが最初にあったから梅やわさびに苦手意識を持ってしまったんじゃないかと思います。初めから泳げる人なんていません。口に水を含み、肌に水を感じ、顔を洗い、体に水を感じ、洗面器に水を溜め顔をつけ、慣れてから目を開けてみて、鼻から空気を出してみて... 覚えていないくらい細かな水へのアプローチの変化があって水への抵抗感が消えていくんじゃないでしょうか。いきなり梅やわさびの一撃をくらった人にそれらが強く感じられる料理はいかがなものかと考えたんです。多分作らない。だから、今回、料理の紹介として「ほのかに」「ほんのり」というキーワードをあてがってみました。玉露園梅こんぶ茶は入門には最適な「梅感」です。「ほのかに、ほんのり香る梅とわさび」それで美味しくなる一品に料理を方向転換して残りの紹介を駆け抜けて参ります。三島大社の力か、箭弓稲荷の力か、はたまた祖母の囁きか、iketchにはわかりませんが、企画をやってる最中にこんな「凄まじい気づき」がきたのは、これまた人生初。「好きなものを作るではなく、好きになるものを作る」というインスピレーション。

いけない、喋り過ぎて喉が乾いちゃいました。富士山のふもとで買った美味しいサイダーを飲みながら続きを書いていきますね!

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